ヒューム「ベルグソンの芸術論」(1)/藤原 実
ouポエットの記録」)
と書いています。
これらの、シニフィエをもたないシニフィアンのたわむれ、とも言える二十世紀的な言語観、バルトの「言語の関連を破壊し、述語を語の逗留地へと引き戻す」「それ自身によって濃密」なものとして言語をあつかう態度というのは、つまりコトバを(マルセル・デュシャン(1887-1968)が「泉」という作品で便器から日常的な品物としての価値を剥奪して、ひとつの無目的な事物として提出したように)「オブジェ」としてみるということでした。
「ダダは何も意味しない!」と叫んで、言語を意味から切り離そうとした
[次のページ]
前 次 グループ"『世界の詩論』(青土社)を読む"
編 削 Point(8)