【家庭の詩学】 #2 わかるということ/043BLUE
ても「わからない」。つまり、「味」というものは「頭」で理解するものではなく「味覚」「臭覚」「視覚」「触覚」などの「感覚」を総合的に働かせて「分かるもの」だからだ。詩は確かに「言葉」で構成されているが、そこには、並んでいる言葉以上のもの(感覚的・感性的なもの)が確かに「存在」しているのだ。その「存在」を言葉で証明することはもはや不可能であり、いや、それをあえて「言葉」によって超えようとするが「詩」なのだろう。しかし、その「詩」は「アタマ」だけで認知できるものではなく、もっと「言語認識における味覚・臭覚・視覚・触覚などの感覚」を総合的に働かせて「体験」する「世界」なのだと言えるのだと思う。 この場合の
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