批評祭参加作品■僕たちの罪は、どうすれば癒されるのだろう/2TO
いがらに埋もれてしまうだろう」(第三連)から。
すなわち、この詩に現われる「わたし」とは「自然」である。スピノザの「神」が即ち「自然」であるように、そのような意味において、「わたし」はこの「せかい」に属している。「あしくびのアンクレット」として現われる「わたし」の身体は、けっして“せかい/わたし”という分け距てられた存在ではなく、あくまで“せかいの延長”としての一義的な内在性としての身体なのである。また、あえてこういうならば、それは「襞」としての身体、それもこの詩の形体をつかさどる「かいがら」―――「BAROQUE」の表面に象られた「襞」の部分なのである。それは、
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