俳句の非ジョーシキ具体例3/佐々宝砂
 
ちで、つまり生まれくる子どもからみた能動態のかたちとして表現したら、いったいいかなるものになるか、いかなる言葉が使用されるべきか?

この問いに答えうるのが、高柳重信の言葉「母を脱ぐ」。母親の生みの苦しみはもちろん、出産の状況も妊娠の事情も両親の気持ちもまだ全く知らない人間、胎児から嬰児に変身しつつある一人の人間の立場に立って、高柳重信はきっぱりと書いた。「母を脱ぐ」。これは実にとんでもなく非ジョーシキな表現だが、真実だ。

「生まれたくて生まれたんじゃない」という言葉をよくきくけれど、本当はそうではない。狭い産道をくぐりぬけてくるとき、私たちは誰もが本当に苦しかったはず。生まれるのがいやなら、そこらでやめとくこともできたんだぜ、産道で息ができないまま詰まってれば生まれなくて済んだ。だが、私たちはそれでも外に出ようとした、母を脱ごうとした。そしてやり遂げた。私は高柳重信のこの句に出会ってから、そう考えるようになった。私は私自身の努力の結果(もちろん私一人の努力だけでは無理だったと思うけど)、まぎれもなく私の意志で母を脱いだのだ。
   グループ"俳句の非ジョーシキ(トンデモ俳句入門)"
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