街で、ときどき
時間が迷子になる。
角を曲がれば、
昨日の午後三時がベンチの下でそっと息をつき、
十年前の雨が歩道のひび割れに溜まっている。
まだ来ていない朝は、街灯の影の隅で、眠ったま ....
朝、机に向かうと、原稿用紙の中央に一行だけ書かれていた。
「昨日の夜、あなたは誰かを見た。」
私はそれを消した。
理由は特にない。ただ、そこにある必要を感じなかったからだ。
....
私は沈黙翻訳家だ。
仕事は、沈黙を翻訳すること。
人が何も言わなかった瞬間を文章にする。
呼吸の長さ。
椅子の軋む音。
指が机に触れる間隔。
紙や衣擦れの音。
音だけでは分からな ....
街の外れに、小さな市場がある。
看板は古く、文字が半分ほど消えている。それでも人はそこを知っている。
ガラス戸には、かろうじてこう書かれていた。
「中古品取扱」
何の中古かは書かれ ....
困ったことに、その話を聞いてからというもの、私は電信柱を見るたびに軽い動悸を覚えるようになった。
電信柱が町を歩いている夢をみた。
と、書いてあったという。
それだけ。
だからどう ....
この物語は、あなたが読むことで初めて形を得る。
読まなければ体験は消え、読むのを止めれば未体験も跡形もなくなる。
さて、始めましょう。
あなたは、もう読んでいる。
そして、この文章の存 ....
私は誤読されるために書いている。
そう言うと編集者は困った顔をする。
「いや、できれば正確に読まれたほうが……」
正確とは何か。
私は三百枚の原稿を書いた。主人公は爆弾魔で、 ....
午前八時三分、出勤。
私は会社に入る。
正確に言えば、
会社が私の中に入ってくる。
自動ドアがスッと開く、
社員番号が一つずつ肺に打刻される。
エレベーターは上昇する箱ではありませ ....
窓の隙間から
ひそかに
窓が入る。
Tシャツを
ひそやかに、脱ぐように
部屋が捲り返されていく。
ひとりで良かった
家族は諸用で泊まりなのだ。
気の毒なのは猫だ。
もう逃げる ....
難解な宿題だと?
そんなものは最初から燃えている。机の上で、白い顔をして、しかし内部では火薬のようにくすぶっている。
題は知らない。
問いはいつも遅刻してくる。
答えはすでに血の中にある。 ....
「あゝ、ゴジラだ!」
と、命名できた様に
初めて、それを見た時
「あゝ、みとふかちゅさにゅだ!」
と、命名できた。
「みとふかちゅさにゅ」は
午後の窓辺でほどけたのではない。
....
人が行方不明になるというのは、何も山に入ったきり帰らぬとか、海に出た船が戻らぬとか、そういう劇的なことばかりを指すのではないらしい。むしろ、もっと静かな、そして当人にとってもほとんど自覚のない仕方で起 ....
濡れた布が顔に触れると、
母親の腹の中みたいな匂いがする。
生ぬるくて、逃げ場がない。
そのまま息を吸う。
拒めばいいのに、従順だ。
俺は普通だ。
自分でも驚くほど。
決まっ ....
町はゴミに支配されている。
誰も認めたくないが、ゴミがなければ、
町はすぐに消えてしまう。
ゴミはただの廃物ではない。
町の歴史がそこに溜まっている。
誰かが笑い、泣き、怒り、諦めた痕跡 ....
あの人は、夜になると机に向かう。
昼間は静かで、どこか所在なげに庭を歩いているくせに、夜になると別人のように背を丸め、灯りの下で紙に向かう。私はその背中を、何度も見てきた。
ランプの火が揺れる ....
朝刊の隅に、指先ほどの四角がある
折り目の影に半分隠れて、誰も気づかない
《同居の父(六八)を刺す。無職の長男(四二)逮捕。動機は黙秘。》
それだけだ
血の色も、部屋の匂いも、畳のへこ ....
朝から頭の中が少々騒がしい。
騒がしいが、音はしない。
音がしないのに騒がしいのは妙だと思う。
だが、妙だと思えるうちは、まだ大丈夫である。
もっとも、「まだ大丈夫」と声が急く。
急 ....
祝祭
⚫️
光の広場
高名な建築家の最後の作品だと聞いた
帽子の男が私で
子どもの声で満ちている
風に揺れる旗は、祝祭の印か?
水たまりに空が落ちて
覗くと私よりも帽子の方が
....
人は立つ。
立つとは
わずかに倒れ続けることだ。
完全に静止した者は
すでに倒れている。
血液は
閉じた管のなかで
絶えず逃走し、
骨は
内側から崩壊を延期し続けている。 ....
気がつくと、そこに立っている
誰に言われたわけでもない
合図もない
だが、前任者が退いた瞬間
床の上に薄い印が浮かび上がる
そこだ
立っているだけでいい
見ているだけでいい
....
煙突から、まっすぐ煙が立っていた。
冬の午後。工場の裏手で、ふたり立ち止まる。
「今日は素直だな。」
「何が。」
「煙だよ。曲がらない。迷わない。出たら、出っぱなしだ。」
「 ....
あらっ、雪
と、妻がいった。
予報は当たるもんだね
予想はたいてい外すのにね。
これは、積もるわね、きっと。
喜ぶのは、子供だけだよ。
せっかくの休み
寝床から出ていくの ....
人生は、「意味が最初から用意されていない時間」。目的や正解が先に置かれていない、生まれた瞬間「これが答えだ」という台本は渡されず、ただ時間だけが与えられる。その時間の中で、何かを欲しがり、何かを恐れ、 ....
この国では、芸術は意味を与えないことを目的としているらしい。目的という言葉が正しいかどうかは分からない。ただ、意味が生じかけると、誰かがそれに気づく前に、自然と処理されてしまう。処理という言い方が一番 ....
今村昌平は、人間を撮っていた。
いや、撮っているというより、そこに居座っていると言った方が近い。カメラは回っているのだが、回っていることを主張しない。ただ、人と同じ重さで、その場にある。今村の撮り方 ....
ゾウは深刻な顔で悩んでいた。
鼻が長すぎるのである。
長いというより、余剰だった。用途不明の延長コードのように、床にとぐろを巻いている。歩けば踏む、踏めば驚いて鼻が跳ね上がり、跳ね上がれば自分の顔 ....
朝、主人は何も言いませんでした。
何も言わない、ということ自体が、すでに何かを言い切っているような沈黙でした。
起きてくると、主人は卓に座り、腹のあたりに手を置きました。押しもせず、確かめもせ ....
病院で渡された書類を、
私は椅子に腰掛けて読んでいた。
本文は簡潔で、
氏名、生年月日、
必要事項だけが並んでいる。
安心できる文章だった。
ところが、
下の方に小さな数字が付い ....
フェリーニが言った。
「映画はね、サーカスだよ。象がいて、道化師がいて、最後はみんな死んだふりをする」
アントニオーニが言った。
「いや、映画は空白だ。人間がいなくなった後に残る、風の通り道 ....
「なんたらかんたら」とは、なんたらであり、かんたらである。いや、正確に言えば、なんたらでもかんたらでもないが、同時になんたらでありかんたらでもある。その曖昧さこそが、なんたらかんたらの本質なのだ、と誰 ....
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