[124]小池房枝[2012 05/14 23:49]☆
が書かれていたと記憶しています。
#意味はわからなくても何かを口に出して読めたとき、目にして読めはしたとき、それは意味の理解とは違うけどそれはそれで一種の読めたという行為ではないだろうか、という点ではそれを拒みあくまでも数学的/幾何学的理屈の伝達の達成を目的とした書物であったがゆえの「原論」だったのだろうと。(それそれそれそれごめんなさい。ホントにもう日本語に限らずコソアド言葉の現場指示と文脈指示と彼我のカテゴリーの微妙な使い分けときたら・・・。)
#朗読や音読や詩の話から離れてしまっていて申し訳ありません。翻訳に超訳、があるみたいに朗読や音読における超・朗読や超・音読も楽しいことでしょう。桃尻語訳枕草子、あるいは未だに読み解き方に定説のない難読額田王@万葉集、エトセトラ、エトセトラ。逆に注意深く注意深く意味を排除して気持ちの良い音の連なりだけを人の声でヒトの言語音で抽出してゆく、そんな試みも出来そうです。地球人類征服乃至は友好を目指す宇宙人とかが研究してそうです。
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