ヒューム「ベルグソンの芸術論」(6)/藤原 実
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「寺山修司にとって俳句とは、言葉の錬金術を楽しむべき容器にほかならなかった。
…とすれば、五七五という枠のなかに投げ入れられる言葉は、寺山修司にとって意味であるよりもむしろ物質に近かったと考えることができる。それらは、なによりもまず母音の数であり子音の響きであった。意味はそれらの言葉の組み合わせのうえに蜃気楼のように立ちのぼる架空の城にほかならなかったのである」
「寺山修司は俳優の肉体を驚くべき仕方で組み立ててみせる。句や歌において、言葉を驚くべき仕方で組み立ててみせたように。
…だが、寺山修司の演劇は人形劇にすぎないなどと批判することはできない。
…手が義手であり足も義足であ
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