笛吹き少年の行くえ(7)/Giton
 
書稿(四)は、再学習後に「こそ」を除いて誤りを直したものと考えられます。したがって、「(了)」の上限は、1932年2月頃。栗原敦,op.cit.,pp.387,393-395 参照。?他方、同年8月・11月発行の『女性岩手』誌に文語詩・計5篇を掲載していますが、11月掲載分のうち1篇にだけ、掲載原稿の3段前の下書稿に「(了)」印があります。いったん「(了)」とした後に文法再学習を行ない、さらに推敲して送稿したものと考えれば、「(了)」の下限は10月頃となります。)

これは、いったいどういうことなのでしょうか?。。。

「なだれ」という題名は残されてますから、雪崩という自然災害が起きたこと
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   グループ"宮沢賢治詩の分析と鑑賞"
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