アクロバティックな午後/合耕氏の作品について/渡邉建志
」という文にたどり着いて初めて、ああ、いままでの文章は客観的な文章ではなく主観的な文章だったのだ、と認識するだろう。重要なのは、客観的から主観的に移る場所が、一読では把握できないことであり、このへんの「気がつけば屈折」現象が作者の詩をとっつきにくいものにし、また魅力的なものにもしている。客観的から主観的に変わるのは、読み返せば「反魂(瘢痕?)の後を探る→僕の顔を」の僕あたりからだということが読み取れるであろう。「考える」の内容がこれだけ複雑なのに比べて、「いつも思う」の内容は次に明示していますよとフラグが立っている。そうすれば、おのずといったい何がくるのだろうと期待するだろう。この期待(と期待外し
[次のページ]
前 次 グループ"フレージストのための音楽"
編 削 Point(7)