嘘とパラドクス/アシタバ
 
客観小説>のような見かけを与えもするのですが、考えてみるとその客観には猫という拭うことのできない限定性が付されているのです。話者が猫であるとしたことの恣意には、猫がどこの家庭でも買われていることからして、「虫」とすることの悪意や自嘲すら感じられません。そしてそのことが、話者が「虫」である場合には異様さとか、不安といった違和感を掻き立て続けるのに対し、ごく自然に、違和感を減少させるのです。カフカの小説はまるで「虫」のように嫌悪の混じった恐怖の目で眺められ、漱石の小説は「猫」のように愛玩的に書棚に飼われる。しかしその受け入れられ方の違いと、この二つの小説が言語表現に対して同じ疑問を投げかけている
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