嘘とパラドクス/アシタバ
には嘘といいきれないまま、「作者=漱石の鋭い文明批判」などが取りざたされたりもするのですが、文明批判をするぐらいなら何も猫になりすます必要はないのであって、話者を漱石自身とする見方にはとても賛同できないでしょう。むしろ「吾輩は猫である」は「わたしは漱石ではない」なのではないでしょうか。では誰かというと、「名前はまだない」なのです。
とはいえ「あらゆる小説というものが、無名の話者=嘘つきによって」語られるわけではないので、あくまでこの小説に限定した上でですが、これがゼノンの場合の「ありそうもないことが、ある体系=主観にとっては真実として示される」とは反対に「いかにもありそうなことが、ある恣意
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