野田秀樹『贋作 罪と罰』を観る/田代深子
う、とわたしは主張した。彼女はキリスト自身に通じる徹底的な自己犠牲、無私の象徴ではあるが、なにも自己犠牲はキリスト教にのみ存在する美徳ではないはずだ(たとえば日本の〈武士道〉も無私の精神において評価されるべきものだ)。ソーニャはむしろ、ラスコーリニコフが求めたような“正しい理論に裏打ちされた行動により導き出される、正当な結果”を、根元から否定する存在として考えるべきなのではないだろうか。彼女が払う過酷な自己犠牲行為は、父母を救い得ず、自身をさらに苦しめていくばかりで、それに見あう成果をもたらしはしなかった。それを見てラスコーリニコフは「だから君は間違っているのだ」と言いつのるわけだが、彼女は行動を
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