野田秀樹『贋作 罪と罰』を観る/田代深子
 
為していくことそのものが、ときに評価されてしまっている。しかも、それが男でなく女だからできたこと、とも受け取りかねない表現である。これを危うく止めているのは、じつにまっとうで徹底的な主人公の苦しみしかないのであって、松たか子の演技力はともかく、慟哭と嗚咽はストレートに胸を打ってくるようになっているが。
 原作においてラスコーリニコフを改心させたソーニャが、『贋作』において不在であるということは、キリスト教的〈愛〉の不在をも意味しており、『罪と罰』の根幹に関わるのではないか、と、酒も交えているうちに話は移行した。しかしソーニャは、たんにキリスト教的〈愛〉の表象なのだろうか。そんなことはないだろう、
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