九鬼周造著『日本詩の押韻』再読/狸亭
の彷徨者」 とを取って、その詩行を廃し、散文の書式に書き換へ、それらの詩が 詩ではなくて散文であることを主張し、詩壇に論争の渦巻きを起こし た。もしこれらの自由詩が押韻を採用してゐたならば、この書き換へ 事件は起こらないで済んだのではあるまいか。北原氏は詩の内律とし てのリズムを力説する人であるから、たとへ散文の句末に押韻したと てそれだけでは詩にならないといふかも知れない。それも道理である。 私とても押韻だけで詩が成立するなどとは決して考へてゐない。詩か し前節にも述べたやうに押韻はそれ自身に一種の節奏を生み、少なく も行別を鮮明にして一篇の詩全体にリズムを齎す力をもってゐる。與 謝野晶子も「詩
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