九鬼周造著『日本詩の押韻』再読/狸亭
 
おのづから規定されるので、いづれか一方に片付けてしまはねばならぬといふやうな性質のものでない」のですから「文体の如何んは韻の問題に関して何等考慮する必要はない。」訳です。この章で注目すべきは、ギリシャ、ラテンの詩では音綴の長短が厳格であったがフランスでは特にロマン派が古典派の規定を破った際、即ち律をいわば自由化した時、かえって韻を重視した経過でありまして、中国の李白の作例もありますが、九鬼は「日本の詩壇では、自由詩の押韻といふことについて、大きい開拓の余地が残されてゐると思ふ。」と言っています。何故か、次の引用を読んで欲しいのです。

  嘗て北原白秋は白鳥省吾の「森林帯」と福田正夫の「戀の彷
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