九鬼周造著『日本詩の押韻』再読/狸亭
 
るであろう、と或る意味では多寡を括っていたところもありました。しかし自分流の詩というものは、多くの陷穽に取り巻かれていてどうもこれでは駄目だという思いに付きまわれておりました。興が乗ればいくらでも書けてしまうのです。自由詩だから、どう書いてもいいし、制約が無いからでしょう。
 押韻詩を実際に試みてみますと、いつもは使ったこともない言葉と出会います。自分流の感性のみに頼った表現、使い慣れた(時には手垢にまみれた日常的な言葉)と音韻上の制約によって捜し出された言葉との衝突によって、思わぬ効果がもたらされます。まさしく「形式上の束縛」が緊張を高め、そのことにより、喜びがある、という訳です。

  
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