セカチューのリアル<村上春樹/セカチュー/となり町戦争>とランボーの埋葬:切り貼り/がらんどう
 
てしまっている─子供は「回想」なんてしない─。「70年」の少年にとっての「リアル」とは、同時に「テレビ」や「漫画」のなかに提示されているそれであった(「我々はあしたのジョーである!」だなんて村上の主人公はけして言わない)。むしろ、それは現実よりも「リアル」なものであった─「視覚」が我々の「リアル」をすでに組み替えていたのだ。つまり、村上とセカチューが共に欠いている「テレビ」という要素は、「失った世界の美化」のためにその排除が要請されているのである。つまりそれは「あまりにも文学的すぎる」のだ。だからこそ、それはかえって「文学のカリカチュア」と化してしまうのだ。「視覚」という「リアル」への反発、ゆえに
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