セカチューのリアル<村上春樹/セカチュー/となり町戦争>とランボーの埋葬:切り貼り/がらんどう
とはまれである。若者である書き手が、自らの「若さ故の狂気」なるものにより動かされて何かを書くとして、それはその実「若者」という、「狂気」という、エクリチュールに回収されているに過ぎない。それはおおよそエクリチュールを自ら選択するという(書くことにおいて我々がかろうじて選択可能な)自由、積極的な身振りすら欠いている。そうして表現される「狂気」に「現前」を、「声」を、読み取る態度は、ただリアルの虚構への優越という階級性を再確認し反復させるだけであるのだ。
ふたたび言おう。我々はもはや「狂気」など必用としてはいない。
ランボーを、中也を、正しく埋葬すべきなのである。
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「しかし、
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