母さんはね(修正版)/板谷みきょう
 
玄関の鍵が、ゆっくりと回る音がした。夫の帰宅だ。
時計の針は八時半を指している。
いつもなら「寒かった」と呟き、靴を脱ぎながらコートを椅子に放り投げる乾いた音が続くはずだった。
だが、今夜は、家全体が息を潜めてしまったかのように静かだった。

「どうしたの?」

ソファから立ち上がるわたしに、夫は声を出さず、顎で息子の部屋を示した。

扉はほんの十センチほど開き、廊下に漏れた光とともに、テレビから『八時だよ!全員集合』のにぎやかな笑い声が流れ出ている。その笑い声だけが、この家の“通常”を保っていた。

「もう寝たのか?」

夫の囁きに、胸の奥で、小さな棘のような違和感がひ
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