「メタファー」か「イロニー」か/こたろう
 
んが、便宜的に「多言説主義」としておきます)」です。バフチンによれば「多言説主義」により、複数のディスクールが相対化され、距離を置かれ、結果、パロディ的効果が生まれる、と。

 では、詩「メタファー」では、一体何がパロディ化されているんでしょうか? 原口昇平さんの解釈によれば、それは「たまねぎ」のディスクールです。だから隠喩の否定が詩の核として浮かび上がってくるわけです。ですが、この詩の中で、「夫婦」のディスクールを「たまねぎ」のそれよりも優位に立たせるものは何でしょうか? そういったものは見当たらないように思います。この二つのディスクールはむしろ同一レヴェルにあり、相互的にパロディ化している
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