「メタファー」か「イロニー」か/こたろう
 
いるのではないでしょうか? つまり、「たまねぎ」だけではなく、「夫婦」もまたパロディとなっているわけです。「夫婦」のメタファーを理解しようとしない態度が、反語(イロニー)として語られている、理解し難い事態に直面したときに何事もなかったかのように事を済ませる「夫婦」に投げかける皮肉がこの詩にはある、このようにも考えられると思います。

 また、「たまねぎ」のディスクールですが、その姿勢が哲人のそれのメタファーとして解釈されています。ですが僕の読みでは、メタファーについてのメタファーとも解釈できると思います。隠喩とは、この言葉通り、言葉の字義的な意味に「隠された」別の意味がある、ということです。自分の奥に、真なる自分を求める姿、それは表層的な意味を剥ぎ取って、その奥に真の意味を見い出そうとする姿勢ではないでしょうか? そして真の意味を求めながら、言葉を解体してしまう「たまねぎ」。この詩を読んで、すぐさま字義的な意味の奥に隠された意味を見い出そうとする性急な姿勢への皮肉や予弁法のようにも読めます。

 以上、たもつさんの詩と原口昇平さんの批評を読んで感じたところを書かせて頂きました。
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