『春と修羅』における喪失のドラマについて/岡部淳太郎
 
、詩であるのならば持ちうる限りのあらゆる技巧を凝らして読者のために読めるものを作ろうとするのだが、心象スケッチであるならばその点は初めから考慮されていないと見るべきだ。読者のことなど考えず、あくまでも自分の語りたいことである「心象」を好きなように語る。そのようにして作品が成り立っていると見るべきだ。特に「無声慟哭」の五篇は妹としの死を扱うという極めて私的な動機から発想されているため、その傾向はなおのこと強いだろう。逆に言えば、そんな技巧を意識しない好きなように書くという書き方だったからこそ、当時の人々にかえって新鮮な衝撃をもって受け入れられたのだと言えるだろう。
 まず冒頭の「永訣の朝」であるが
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