四月終わりのメモ/由比良 倖
 
忘れてしまったとき、僕はそれを埋め合わせるように、普遍的な考え方が欲しくなるのだと思う。誰か特定の人への、生々しい鼓動を伴った愛おしい気持ちを忘れたとき、僕は退屈混じりに、理想的な他人像を思い描いてしまう。人たちの痛々しい欠点への愛情(パッション?)を忘れてしまう。
 西洋哲学と東洋哲学は、ただ肌触りが違うだけなのだと思う。東洋哲学は「切り分けるのはやめなさい」と言う。世界とは丸ごとそのままなのだから、自我をも含めたその全体を感じることが大事で、それが悟りなのだ、と東洋哲学は主張し続けていると思う。世界を手術しないという意味では、東洋哲学は何処まで行っても生理学なのだと思う。空気のような波のよう
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