谷川俊太郎の「孤独」の現代性について/岡部淳太郎
 
た』冒頭に収められた「芝生」という詩だろう。

 そして私はいつか
 どこかから来て
 不意にこの芝生の上に立っていた
 なすべきことはすべて
 私の細胞が記憶していた
 だから私は人間の形をし
 幸せについて語りさえしたのだ


 ここにある「細胞」という言葉も三好達治的感性からは遠い。この詩にある感覚も「孤独」と呼んで差し支えないものだろう。「不意にこの芝生の上に立っていた」というのは、自らがどうしてそこにいるのかわからない戸惑いの感じがあり、これが孤独でなくて何なのだろうと思わせるものだ。
 谷川俊太郎の詩を読みこんでゆくと、大抵の抒情詩人にある「私」という個の
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