ぼくの脳髄はカンシャクのステップを踏む/藤原 実
 
ティーのごとく、らんちき騒ぎに終始する。ボクたちが存在するという現実から遊離している。

じぶんだけを解体しようとしても、それも相対的にすぎない。抽象的である。たとえば、どんなに精緻でも自己分析は詩でない。

ふたつのことはかならず同時に同一の場で行われなければならない。そうでないと、それは絶対の世界を示し得ない。

しかし、「絶対」の詩はとらえがたい。いざ実作となると、ある時は、じぶんによりかかり、またべつの時はコトバによりかかる。たいていはダダやシュルレアリスムのごとく否定ばかりの廃墟となってしまう。あるいは、肯定ばかりの道徳家の茶飲み話になってしまう。どちらも、しょせん、迷いの世
[次のページ]
戻る   Point(1)