長い失読の状態について/道草次郎
読み物は自分にとってはかなり稀である。
これは、けっして物事を深く考えるゆえではない。それは寧ろ、倒錯した自己愛がもたらす毒の盃かも知れない。たしかに、何かを読み、その判断を躊躇わないような文章は読むまでもないし、逆に、人を逡巡させることのみが目的のようなものも虚しいと思えるが。
今は、ひとえに、読んでいる主体としての自分がその繋がりに於いて大地と同根かつ不二のものであるという自覚のみが必要なのかも知れない。
だとしたら、なぜ読むことに執着をするのか。これは、こんな事は、こうして晒すことでは本当はない。本来は黙って、この場を去るべきだろう。しかし、しかしと言ってしまう自分というも
[次のページ]
戻る 編 削 Point(1)