11月1日所感(つれづれ)/道草次郎
 
。つまり何を言いたいかと言うと、これはぼくのしてきた事がいかに無惨なものであったかという表明なのである。

ぼくは戦後詩人のようにも戦前詩人のようにも、また、マヤコフスキーのようにもリルケのようにも、なんにもなれずに自転車ばかりをこいできた。何一つ、ものにならず。何一つ、愛せずに。これを認めることはとてもつらいけれど、ひとつの空疎な生を、生きたばかりだった。

魚の銀河や、水族館のような窓の汽車。そんなものを夢想しながらも目はいつも遼くを泳いでいた。嘘を付きすぎた為、閉じ込められたあばら家の湿気た庭で今はしゃがんで暮らしている。

勝手無闇に罪を作りその罪に痺れ、キルケゴールを読むのを
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