9月1日 曇り時々晴れ/道草次郎
と。というか、何かを差し挟む余地がそこにはあるのかということ。キュビズムのように多面的に現実を切り取りそこにいちいち何かの符号なりを貼り、一つの完成された作品、或いは少なくとも鑑賞者がそれを把握することのできる何かにすることは可能か。しかし、ところでそうした衝動の一切が冒涜でないとどうしていえるか。冒涜というのは、既存の権威を疑うことなしに受け容れているものが感じる不自由な感情?本当にそうか?人間がある芸術的方法をとる場合に冒涜感情が兆すのはその人間が狭隘な宗教意識に縛られているから?うーん、わからない。冒涜的感情を感じるのは、自分の場合、たんにその感情を表す言葉として冒涜しか知りえない故かもしれ
[次のページ]
戻る 編 削 Point(1)