詩の中の『私』/腰国改修
性』だと思う。
何が言いたいかというと、『詩の中の私』は、かなりの頻度で先入観や一般論で左右されないか?といこと。もしも、井上陽水が『私』の代わりに『あたい』を選択していたら、あれ?主人公は女性かはたまたドラアーグクイーンか性転換前のオネエか?とか色々悩まないだろうか?
と、井上陽水はこのあたりまでとして、諸兄(男女平等に気を配れば"諸姉"?)らは『詩の中の私』についてどのような感覚、または使い勝手みたいなものを感じてるだろうか?
私はよく、友人などに詩を見せると、詩の中の私は現実の、つまりその詩を書いた『私』だと解釈され、たとえば『私は黄泉の国に憧れる』と書
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