気の遠くなりかたについて(山茶花オクリ讃2)/渡邉建志
はねのける壁のようで、でもはねのけてすらいなくてただひたすらに存在で、存在として存在していた。分からないものに対して僕らは次のどちらかの反応を示すだろう。僕らの生活とかに関わらないものとして無視するか、分からないがあまりの存在感におののくか。山茶花オクリさんの詩の中に、僕はもう一人の少年の声を聞き、想像も絶するような視体験をしたに違いないこの少年が、それを日本語に翻訳することなく体験のまま日本語を存在させていることにおののかざるを得ない。みなもすなる生活のための日本語体系からみて綻びが生じているその裂け目にこそ、少年の視体験への入り口が開いている。
そこにはひょっとするとインターネットの生々
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