褐色の濃いあたりに/深水遊脚
た。詩はある程度自分から読み取りに行かなければ、わずかな偶然を除いては読む私のなかに入ってくることはない。文字よりも、彼女のためにあけた余白のほうが賑やかになり始めていた。それでも、空想の型を固定してそれに現実の思い人をあてはめたり、あてはまる人ばかりを探したりすることが、どれほど滑稽で、その滑稽さに気づかないでいることがどれほど傲慢なことかは、知っているつもりだった。となりに倉橋さんがいる、その幸福感を私にも、そしてたぶん倉橋さんにも優しいこのお店の雰囲気のなかで感じられることが、いまは嬉しかった。余白の騒めきはしだいにお店の時の流れによって鎮められ、文字のほうに心が移っていた。感じとらなくても
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