神棚のサドル/カンチェルスキス
 
届く。のっぺらぼうになった暗い海に、亡き父の面影が浮かんだ。意識が遠のいていく。どこか心地もよかった。「父さん、もうすぐわたしもあなたのところに行くよ…」。そのとき、何かに足を取られ、激しく前のめりに転んだ。足元を手触りで確かめると、流線型でつるっとして、底にざらざらした棒状の突起物がある。それが何か、老婆にはすぐわかった。自転車のサドルだった。当時は珍しい自転車の数々に囲まれた父親の笑顔がなつかしい。老婆は自転車屋の娘だったのだ。「父さん…」。顔を上げた老婆の近眼に、街で唯一の高層建築の明かりが見えた。あそこに向かっていけば、何とかなる。サドルを胸に歩き続けると、やっとのこと堤防の外まで来た。そ
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