詩人の死/葉leaf
が容易に「許可」される。それゆえ、私は伊達がいったい何をしようとしていたのか、何を考えていたのかについて語りたがったし、それについて自分はどう応答するかについて語りたがった。私と伊達は同じ詩を書くものとして互いに共鳴し合うことができる。その共鳴する次元において、私は伊達の可能性を規定したり、伊達の可能性に応答したりしたわけである。
さらに、詩人というものは大きな物語から零れ落ちた小さな断片を記述する者である。そして、詩人はその表現において自らの個性や特殊性をいかんなく発揮することが許された存在である。詩人というものはそもそもマイナーな内容を表現する存在であるといえる。そのうえ、詩人は自身もまた
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