「われわれは、愛と平等を否定」しうるか?−「障害」と「言葉」の関係を繋ぎなおすための考察/石川和広
風景を、写生としての「俳諧」という絶望の地平に置き換えたと見たらいかがだろうか?
そこから様々な可能性。尾崎方哉、住宅顕信…
「五体不満足」の乙武氏とは、ちがう風景が見える。
今も障害という理不尽はある。意匠を変えて、しかし、単に不便のみではないものがあるはずだ。そして、それを沈黙する乙武氏にも、見えない苦味があるのではないか?
それは、やはり、身体の操作性以前の「不遇」の感覚。その子規が時代の制約の中で感じ取らざるをえなかった「不遇」を削り取っているからこそ、彼は、奇妙に「明るく」見える。影を失っている。これは、私たちと無関係か?
子規はbase ballを「野球」と訳したし、乙武
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