人生を消費しないために/葉leaf
はなく、実はただの排泄なのかもしれない。書き手が感極まって作品をものすとき、そこには常に「何者かにさせられた」感が伴うかもしれない。書き手は、今日の出来事を余さず話す主婦と何も変わらないのかもしれない。だが、書き手は常に他者の視点を内面化することで、単なる排泄を超えることができる。他者の視線によって鍛え上げられ、他者の視線に耐えうるものを書こうという気持ちが無意識的であれ書き手に備わっていれば、書かれるものはいかに自動的に書かれようと作品としての人生批評の強度を備えるであろう。
人生を消費することは、実はとても幸福なことだし、いかに人生をやり過ごすかということもまたとても重要なことかもしれない
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