地の果ての嘆き 『風土記シンボリック』によせて/ハァモニィベル
 
は、D・ロングがいうように人間を「社会という鋳型に嵌め込まれ、個性や独自性を奪われ、画一化された存在」(「社会化過剰的人間観」)として捉える。しかし、ブルーマーにおいては、人は「自らにとって持つ意味を再構成する可能性を常に秘めた存在」である。
 この詩においては、未だ「世界」を再構成するまでには至らず、未成熟な自動筆記の感を拭えない。だが、構造機能主義社会学から見た「社会化過剰的人間観」そのもののようにすら思える社会の現実の諸相・断面、個々人が受動的に順応する姿に対し、この詩が苦々しく苛立っているのが感じ取れる。
 シンボリック相互作用との絡みでゴッフマンの「ドラマツルギー」を逆用するような『
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