「羅須地人協会」と満州開拓団との繋がりについて(ノート)/Giton
 

4 満蒙開拓移民が本格化したのは、Wikipedia によれば1931年の満州事変以降であり、宮澤賢治は、この年前半は東北砕石工場(農耕用石灰を生産していた)の技師としてセールスに東奔西走しており、教え子と交流する暇もない状態であり、その9月に出張先で倒れ、そのまま1933年に永眠するまで病床にありました。したがって、時期的に関わりを持つことはできないタイミングだったと言えます。

5 晩年の『文語詩稿五十篇』に、次の作品があります:

     鼓者(注:下書稿(二))

 いたつきてゆめみなやみし、
 (冬なりき)誰ともしらず、
 そのかみの高麗の軍楽、
 うち鼓して まち
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