「羅須地人協会」と満州開拓団との繋がりについて(ノート)/Giton
 
免れ、戦後46年に白河報徳開拓農業組合長となり、53年に「日本高等国民学校」と改名して国民高等学校を再開し、これは現在も「日本農業実践学校」として継続している。〕

とあって、皇道主義的農本主義に基づく青年訓練施設で、「満州へ数万人の青少年を送り込んだ」と言います。
   しかし、宮澤賢治が、加藤完治その他の人物と接触した形跡はなく、『岩手国民高等学校』の主事(実質的統括者)を勤めた高野一司(県社会教育主事)に対しては、「偽善的ナル主事」とメモに書き残しており、雪の上で組打ちの喧嘩をしたとの証言があります。約1年後に発足した『羅須地人協会』との関わりも、資料的に存在しません。
   賢治の
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