笛吹き少年の行くえ(1)/Giton
のも、当時トルストイの紹介者だった島村抱月→坪内逍遥→田中智学という繋がりからだったと思われるのです。『国柱会』創立者・田中智学は、逍遥のほか、北原白秋や“浅草オペラ”人脈ともつながりが深く、文芸・演劇による布教を唱えていました。
ともかく、『国柱会』への傾倒が一段落した1922年、宮沢賢治は“短歌の時代”に終りを告げ、自ら《心象スケッチ》と名づけた口語自由詩に転換して行くのです。
1924年には、自費で『心象スケッチ 春と修羅』(第1集) を刊行します。
その後、作風には大きな変化があったものの、1929年まで、口語自由詩という形式は維持されました。
それがなぜ、最晩年は、文
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