庶民として詩を書くこと/葉leaf
 
閑者以上に多くのことを感じ考えているのである。そこに詩の源泉は厳然として存在する。
 我々は何も特殊な幻想や特殊な状況を設定して詩を書く必要などない。もちろんそういう詩があっても構わないのだが。それより、庶民として生きるというまさにそのこと自体に、豊かな詩の源泉があると私は考えるのである。そして、庶民として生きるということは、自分を特権者として考えないということである。視線が水平的で愛情に満ちているということである。長い間詩人が失っていたものはこの視線の水平性と生活に対する愛情ではないだろうか。
 もちろん、ただの庶民として生活に埋没していたのでは詩を書くことはできない。我々は「自覚した庶民」
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