サリンジャーとドストエフスキー (現代小説と近代小説の断絶について)/yamadahifumi
違う意味を持っている。彼らは単に人を好きになったり、嫌いになったりはしない。その「好き」「嫌い」は常に二重化されている。僕は最近思うのだが、単なる「恋愛小説」とか、お話としての単なる小説などというものは存在しない。人間そのものが極めて難解で複雑であり、そして二重であり、矛盾しているにも関わらず、単に「好き」「嫌い」で成立する劇というのは、何か重大な欠落がある。…僕は最近そのように感じている。
以上が、ドストエフスキー作品の劇の構造だ。そして、それが破綻する以前でとどまったのが、あるいはチェホフであり、サリンジャーであると言えるのではないか。チェホフの「退屈な話」というのは、外面の見かけ
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