混迷錯雑した小説論/yamadahifumi
 
かと言うと、簡単に言うと、ある一つの作品に表出された巨大な精神というの常に、複雑な登場人物の言動やその帰結、あるいはその特異な文体として表されるしかないからだ。だが、人がいつも巨大な精神を、その現れを求めているとは限らない。人が好むのは極めて簡素化された登場人物であり、またその単純な物語である。何故そういう事があるかと言うと、まあ単純に芸術というものへの理解力の不足に帰してもいいのだが、それだけでは足りない問題も含んでいる。それはつまり、生活している人間、現実に生きている人間というのは生きている内に、現実の人間の複雑さを常に感じている。そしてその事にうんざりした精神が、フィクションの中には単純で簡
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