混迷錯雑した小説論/yamadahifumi
 
けたとは考えにくいが、しかし、ここにドストエフスキー風の問題ーーつまり、自意識の問題ははっきりと現れている。「ライ麦畑でつかまえて」の世界が意味を持つのは、主人公のホールデン君の自意識を通しての事である。そこではどんな些細な事でも、彼の意識を通して意味が現れてくる。つまり逆に言えば、この世界のあらゆるものというものは、こうした自己意識を通さなければ意味がないものである。そしてこの事はおそらく、小説というものに重大な帰結を生む。


 小説というものは、誰でも書けると思われている節がある。言葉を知っていて、そして現実を知っていれば小説は書けるのだと。SFであろうと官能小説であろうとどのような作
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