混迷錯雑した小説論/yamadahifumi
ものである。小説が僕らのお気に入りなのは、それが僕らの普段の生活の延長線で理解できるからである。僕らは隣に友人がいるように、小説の登場人物がいると考える事ができる。しかし、実際はそうではない。それは言語によって織りなされた一つの像なのである。そして一人の人間を言語の像を使って立体的に生み出すのは、実はとてもむずかしい事だ。それに比べると詩は、言葉の直接的な機能を使っている。詩において、言葉は像を織り成さなくてよい。
例えば、次のような行がある。
「痛みがなければ
生命感覚に溢れた余白は生まれないのだろうか」
これは田村隆一の詩の一節だが、見事な詩句だと僕は思う。
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