草/葉leaf
は全く別のものになり、新しい空間に突き刺す試みが必要だった。草には花の概念がなかった。
やがて、私の中の詩人は一度苛烈に死んだ。私の持っていた詩人観に私自身がそぐわなくなってしまったのである。詩人とは純粋な否定の機械でなければならなかった。伝統の重苦しさを否定し、社会の押し付けてくる責任を否定し、他者との連帯を否定し、言語を憎まなければならなかった。だが私はもはや否定の絶対性に縋ることができないほど、すべてを愛しすべてに与える人間になっていた。否定の原理が愛の原理にとってかわるとき、その原理から演繹される私の詩人観も、張り巡らされた緊張する神経が緩まるように重力を確かに感じるようになった。否
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