私の批評/葉leaf
 
、どの種類の理論によって解明されるのが適切かはおのずと異なってくる。逆に言えば、どの種類の理論によって解明されるかに作品の特殊性が現れるのである。私はそのようにして作品の特殊性を語るのだ。
 そして、批評の主体は明確に私自身とは異なる。批評とは先に述べたように、作品と理論との相互融解であり、そこではパズルが解かれるかのように作品と理論はそれぞれの在り方が暴かれるのである。それは一つのゲームに過ぎない。作品が与えられ、それに適切な理論を選び出し、それらを組み合わせるという知的遊戯に過ぎない。知的遊戯の主体は私自身ではない。それは、作品に適合する理論を語る主体であり、私自身の主張を語る主体ではない。
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