某勉強会での記録メモ/中川達矢
 
公園の藤棚」に委ねている表現として、この表現のよさが述べられた。

・3連目について
→この3連目があるとないとでは、この詩の雰囲気は大きく異なる。この3連目があることで、結局、この詩が描きたかったのは、この詩を書くという「わたし」であり、結局「わたし」に収斂されてしまうのではないかという指摘があった。そして、「無頓着に書くのはわたしだ」にある「無頓着」についても議論があった。本当に無頓着である人は、自らを無頓着であると言わないのではないか。この詩における計算・戦略というのがどこまでなされているのか。

・余談:以前、某勉強会での発表のため、竹中郁分析をした時のなかがわの文章
→「昼と
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