ぼくは立派なあほでありたいが/すみたに
不幸的なものが結果的に幸福を齎すことがあるかもしれない。でも、帰結的に解決されるとすれば、ぼくらは困惑せざるを得ないんじゃないかな。はじめから何事も簡単に手に入るものではない。けれど、幸せをさっきいった安定状態とすれば、それは意識しなくていいでしょう? 不幸は内部に入って同一のものだから、意識されるのはそういった象徴的物体なんだ。
そして介在する対象となり得る。
幸せは触れられない、場合によっては触れない方がいい、
不幸は触れられる、触れられた幸せは、不幸へと転ずるかも知れない
二〇一二年十月五日 名古屋
親愛なるA君へ
早速の返事ありがとう。それで、まず最初に、君の思惑
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