ぼくは立派なあほでありたいが/すみたに
 
着するのは論外だ。不幸は排除できない。それはそこにあることで周りに与える影響も含めてだ。だから慢性的な感謝病を退け、慢性的な申し訳なさも克服しなければならない。ぼくは歪んでる、じゃがいものように。 だから純粋な自己を獲得するには痛みがある。
 ここにおいて意志と実際的な行動が問われる。欠点を長所にできるのとはわけが違う。欠点、あるいは病、これは痛い、苦しい、苦しい、薬、これこそ不幸だ……それが良いことなどない――良くしていこうとする物自体は不幸だ。
 だからぼくはあほうだ。そして認知の歪みはすべて否定で不幸とする、僕自身を不幸とする。物を正見識するのだ。事物は、事物のまま。そういえば、歴史は不
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