ぼくは立派なあほでありたいが/すみたに
 
)への返答でなくて、不幸の存在への働きかけだ。

      ※

 『病草子』には絵の中に観察者がいる。不幸は本当は見なければならない。視点を求めている。
けど見られる屈辱はでも、どうすればいいのか。見られる屈辱、言われる恥ずかしさ、それは抱えることで自らを含めた周囲へ与える迷惑への申し訳なさ、恥ずかしさ、悔しさで、だからこそ少なくとも、自ら向き合い受け入れることの困難、必要な自己愛が備わった時、ニーチェの飛翔があるのではないか。ないのだから獲得することは大切だ。だが獲るは盗るでもない、獲るは生き残り、活かすという事なのだ。
 それはある物を排除したりするよりも大切だ。ある物に執着す
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